近年の主な自然災害(1995~2014年)
阪神淡路大震災(兵庫県南部地震)《1995年》
1995年1月17日早朝、兵庫県南部を震源とする地震が発生し、神戸市を中心とした都市部に甚大な被害をもたらした。活断層が直接動く直下型地震であったため、揺れは非常に強く、木造住宅や中高層建築物、道路や橋などの土木構造物に広範囲な被害が生じた。加えて、ライフラインの長期停止や広域火災、液状化、山地での斜面崩壊などが同時に発生し、都市型の複合災害となった。
この地震では、特に耐震性の低い建物に被害が集中したことが明らかになった。1981年の耐震基準改正以前に建てられた建築物では、倒壊や大きな損傷が多く見られ、鉄筋コンクリート造の建物においても、特定の階が押しつぶされるような被害が確認された。地震が早朝に発生し、多くの人が自宅にいたことも、被害の拡大に影響したと考えられている。
この災害を契機として、建築物の耐震性に関する制度や運用の見直しが進められた。建築基準法の耐震基準の重要性が改めて認識され、既存不適格建築物を対象とした耐震診断や耐震改修の促進が全国的な課題となった。自治体によっては、住宅の耐震化に対する補助制度を整備し、住民が改修に取り組みやすい環境づくりが進められている。
阪神・淡路大震災は、住宅の耐震化が個人の安全確保にとどまらず、避難や救助活動、地域全体の防災力に直結することを示した災害である。建物の安全性を高めることは、防災まちづくりの基盤であり、都市に暮らす上で欠かせない備えの一つであることが強く意識されるようになった。
有珠山の噴火《2000年》
2000年3月、北海道の有珠山で噴火が発生した。この噴火は、噴火直前に観測された地殻変動や地震活動をもとに、事前に危険性が強く警告され、住民避難が行われた点で、日本の火山防災における大きな転換点となった。3月27日ごろから火山直下を震源とする地震が頻発し、状況の悪化が明確になっていった。
こうした観測結果を受け、3月29日には気象庁が緊急火山情報を発表した。これを受けて、伊達市、壮瞥町、虻田町などの関係自治体は、危険が想定される地域の住民に対して避難を呼びかけ、避難行動が段階的に進められた。
3月31日13時7分ごろ、有珠山北西麓の西山地区でマグマ水蒸気噴火が発生し、その後も噴火活動が継続した。さらに4月1日には、洞爺湖温泉街の背後に位置する金毘羅山でも噴火が起こり、最終的には多数の火口が形成された。噴石の落下や熱泥流の発生、地表の隆起や断層の出現などにより、建物や道路を中心に大きな被害が生じた。
一方で、この噴火では死傷者が発生しなかったことが大きな特徴である。噴火前に住民の避難がほぼ完了していたことが、人的被害を防ぐ決定的な要因となった。有珠山周辺では、過去の噴火経験を踏まえて火山防災マップが整備されており、火山学者の助言、行政の判断、住民の迅速な行動が連携して機能した。
有珠山の噴火は、火山災害において「予知そのもの」だけでなく、観測情報をどのように避難判断につなげるかが重要であることを明確に示した事例である。この経験は、その後の火山防災計画や避難体制の整備に大きな影響を与え、被害軽減に直結する取り組みの重要性を示す代表的なケースとして位置づけられている。
三宅島噴火《2000年》
2000年6月27日、伊豆諸島の三宅島で噴火が発生した。その後、7月8日から雄山山頂での噴火活動に移行するとともに、山頂部で陥没が進行し、最終的には直径約1.5km、深さ約500mに及ぶ小規模なカルデラが形成された。噴火活動は長期間にわたり継続し、島全体に大きな影響を及ぼした。
8月に入ると噴火はさらに激しさを増し、8月18日には噴煙が高度約15kmに達する大規模な噴火が発生した。さらに8月29日には低温の火砕流が発生し、山腹を流下するなど、居住地域への影響が現実的な危険として認識される状況となった。
こうした事態を受けて、9月1日、東京都は全島避難を決定し、三宅村は島外への避難指示を発令した。これにより、全島民約3,800人が本土へ避難することとなり、三宅島は事実上の無人島状態となった。
9月以降、爆発的な噴火活動は沈静化したが、陥没した火口からは大量の火山ガスが長期間にわたり放出され続けた。主成分である二酸化硫黄は毒性が強く、最盛期には1日あたり約10万トンという、世界的にも例のない規模の放出量が観測された。この火山ガスの存在が、島民の帰島を長期間にわたり困難にする最大の要因となった。
その後、火山ガス濃度は徐々に低下し、各種の安全対策や観測体制が整えられたことを受けて、2005年2月1日に避難指示が解除され、約4年5か月ぶりに島民の帰島が実現した。さらに2015年9月には居住規制がすべて解除され、長期避難を伴う火山災害への対応や、帰島判断の在り方について重要な教訓を残した災害として位置づけられている。
新潟県中越地震《2004年》
2004年10月23日17時56分、新潟県中越地方でマグニチュード6.8の内陸直下地震が発生した。震源の深さが浅かったため揺れは極めて強く、川口町(現・長岡市)で震度7を観測し、周辺の小千谷市や山古志村(現長岡市)小国町などで震度6強を観測。甚大な被害が生じた。建物倒壊やライフライン寸断に加え、道路の損壊や上越新幹線の脱線など、都市・交通機能にも大きな影響が及んだ。
一方で、東山丘陵・魚沼丘陵を中心に多数の土砂崩れが発生し、山古志村では芋川が土砂でせき止められ、複数の河道閉塞(天然ダム)が形成された。決壊時の二次災害が懸念されたため、国による直轄の砂防・応急対策工事が実施された。
この地震を契機に、山間部集落の孤立化対策や、道路啓開・物資輸送体制の強化、要配慮者支援を含む地域防災計画の見直しが進められ、山間地域防災の課題が全国的に共有されることとなった。
東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)《2011年》
2011年3月11日14時46分、東北地方の太平洋沖を震源として、マグニチュード9.0の超巨大地震が発生した。この地震は「東北地方太平洋沖地震」と命名され、日本で近代的な地震観測が始まって以来、最大規模の地震であった。この地震とそれに伴う津波、原子力発電所事故など一連の災害は、「東日本大震災」と総称されている。
この地震は、従来それぞれ独立して想定されていた複数の震源域が連動して断層破壊を起こしたものであり、破壊された断層面は南北約500km、東西約200kmに及ぶ極めて広範なものであった。太平洋プレートが日本海溝で陸側の北米プレートの下に沈み込む過程で、両プレートの境界にひずみが蓄積され、限界に達したことで一気に解放された典型的な海溝型プレート境界地震である。
地震発生時には、北米プレート側が太平洋プレートの上に大きく跳ね上がる逆断層運動が起こり、海底が大規模に隆起・沈降した。この海底地形の急激な変動が海水に伝わり、太平洋沿岸に巨大な津波を発生させた。青森県から千葉県にかけての広い沿岸地域が津波に襲われ、とくに岩手県・宮城県・福島県の沿岸市町村では、海に面した平野部の市街地が壊滅的な被害を受けた。
津波の高さは各地で10mを超え、岩手県宮古市の重茂姉吉地区では40mを超える遡上高が記録された。津波は防潮堤や防波堤を越えて内陸深くまで浸入し、住宅、港湾施設、農地、工業地帯に甚大な被害をもたらした。三陸沿岸ではリアス式海岸の地形的特性により、津波のエネルギーが集中した地域も多かった。
また、この津波は福島第一原子力発電所を直撃し、全電源喪失により原子炉の冷却機能が失われ、水素爆発や炉心損傷が発生した。放射性物質の放出により、周辺市町村では避難指示が出され、住民は長期間にわたる避難生活を余儀なくされた。この原子力災害は、自然災害と重大事故が同時に発生する「複合災害」の深刻さを社会に強く印象づけるものとなった。
沿岸各地には津波対策として防潮堤や湾口防波堤が整備されていたが、その多くが今回の津波で破壊された。宮古市田老地区では、過去の津波被害を教訓に二重の防潮堤が築かれており、その規模と構造は世界的にも類を見ないものとして、「万里の長城」と称され、各国の防災関係者が視察に訪れるほどであった。しかし、想定を超える大津波はこれを乗り越え、市街地に甚大な被害をもたらした。堅牢と考えられていた防災施設であっても、自然の力の前では限界があることが明らかとなった。
津波は浸水被害だけでなく、火災も引き起こした。沿岸部では、津波によって流出した燃料や瓦礫が原因となる火災が各地で発生し、気仙沼市などでは広範囲に延焼した。津波が火災を誘発する危険性は、過去の津波災害でも指摘されていたが、改めて重大な防災課題として認識されることとなった。
さらに、地震動による地盤の液状化も大きな被害をもたらした。千葉県浦安市や習志野市など、東京湾沿岸部の埋立地を中心に大規模な液状化が発生したほか、内陸部に位置する埼玉県久喜市においても、住宅地で液状化による被害が確認された。液状化が発生した地域では、建物が傾いたり、住宅の土台が損傷するなどの被害が生じたほか、電柱の傾斜やマンホールの浮き上がりによって上下水道やガスなどのライフラインが長期にわたり途絶した。また、地表から大量の砂と地下水が噴き出す「噴砂現象」が各所で発生し、道路上に堆積した砂に車両が埋まるなど、日常生活や救援活動に大きな支障をきたした。
東日本大震災は、巨大地震・津波・原子力事故が同時に発生した未曽有の災害であり、日本の防災体制や危機管理のあり方に多くの課題を突きつけた。この災害を契機に、最大クラスの災害を想定した減災対策、早期避難の重要性、複合災害への備えなど、防災の考え方は大きく見直されることとなった。
また、発生から10年以上が経過した後も、東北地方太平洋沖地震に関連すると考えられる地震活動は継続しており、2021年2月13日には福島県沖を震源とする地震(M7.3、最大震度6強)が発生した。気象庁によれば、この地震は東北地方太平洋沖地震の余震と考えられるとしており、巨大地震の影響が長期にわたって続くことを示す事例となっている。
平成26年8月豪雨と広島土砂災害《2014年》
2014年7月30日から8月26日にかけて、台風第11号・第12号の影響と秋雨前線、さらに暖湿流の断続的な流入により、日本列島の広い範囲で記録的な豪雨が発生した。この豪雨により、京都府福知山市では洪水被害が、兵庫県丹波市や広島県広島市では大規模な土砂災害が生じた。
とくに2014年8月20日未明、広島市安佐北区および安佐南区では、局地的な短時間豪雨によって多数の土石流やがけ崩れが発生し、山沿いの住宅地に甚大な被害が及んだ。
この災害が大規模化した背景には、複数の要因が重なっていた。広島県では、風化した花崗岩からなる「マサ土」が広い範囲に分布しており、豪雨時には地盤が崩れやすい特性を持っていた。加えて、都市圏の拡大により、住宅地が山地の斜面近くまで造成され、土石流が直接住宅地を襲いやすい立地条件となっていた。
被災地域は、過去に繰り返し発生した土石流によって形成された扇状地が重なる地形であり、地形的にも土砂災害が起こりやすい場所であった。また、広島県内には多数の土砂災害危険箇所が存在していたものの、土砂災害防止法に基づく警戒区域の指定は十分とは言えず、今回被災した地点の多くも指定外であった。さらに、一部地域では砂防ダムの整備計画が進められていたが、災害発生時点では完成に至っていなかった。
加えて、土石流やがけ崩れの発生が8月20日午前3時20分ごろから4時ごろにかけての深夜であったことも、被害を拡大させた要因とされている。外は暗闇で激しい雨が降り続く中、多くの住民が就寝しており、異変に気づいても迅速な避難が困難な状況であった。
また、この災害では、土砂災害警戒情報の発表から避難勧告に至るまでに時間差が生じたことも指摘されている。夜間の豪雨時における情報伝達の難しさや、より早い段階での避難判断のあり方が、防災上の課題として改めて浮き彫りとなった。
御嶽山噴火《2014年》
2014年9月27日11時52分、長野県と岐阜県の県境に位置する御嶽山で突発的な噴火が発生した。噴火により、1979年噴火時の火口列に近い山頂付近に複数の新たな火口が形成され、噴火直後には低温の火砕流が発生して、火口南西側の地獄谷や北西側の谷筋を流下したことが確認されている。降下した火山灰は変質した岩石片が主体で、マグマ由来の成分は検出されなかったことから、今回の噴火は水蒸気噴火であったと分析されている。
御嶽山では、過去1万年間にマグマ噴火が数回発生していたことが地質調査から分かっていたものの、文書記録として残る噴火事例は限られており、噴火活動の履歴は十分とはいえなかった。2014年9月中旬には火山性地震の増加が観測され、気象庁から注意情報も出されていたが、山体の膨張や火山性微動といった明確なマグマ上昇の兆候は確認されず、警戒レベルは平常時のまま据え置かれていた。そのため、登山規制や強い警戒喚起は行われないまま噴火当日を迎えることとなった。
被害が拡大した背景には、複数の要因が重なっていた。御嶽山は山岳信仰の対象として古くから知られ、「日本百名山」にも選ばれていることから登山者が多く、登山ブームの影響もあって利用者は年々増加していた。3000メートル級の高山でありながら登山難易度が比較的低く、当日も好天に恵まれていたため、多くの登山者が山頂付近に集中していた。噴火が昼前の時間帯に発生したことで、昼食や休憩のため山頂周辺に滞留していた人々が、噴石や火山灰に直接さらされる状況となった。
また、9月に入ってから観測されていた火山活動の変化について、情報は主に自治体や関係機関にとどまり、一般の登山者に対する具体的な危険認識の共有は十分ではなかった。結果として、多くの登山者が噴火の切迫性を認識しないまま入山していたと考えられている。
さらに、山頂部には山小屋や社務所はあるものの、噴石から身を守るための専用シェルターなどの避難施設は整備されていなかった。噴火時には直径数センチから数十センチに及ぶ噴石が高速で降り注いだと推定されており、山頂付近には遮蔽物となる樹木も少なかったため、避難行動をとる前に被害を受けた登山者が多かった。突発的な噴火で危険の程度を即座に判断できなかったことや、噴火の様子を撮影して逃げ遅れた可能性も指摘されている。
この噴火は、前兆が極めて短く、水蒸気噴火の予測の難しさを改めて示す事例となった。同時に、登山者への情報提供のあり方や、活火山における登山リスクの周知、山頂部での緊急避難対策の必要性など、火山防災の課題を社会に突きつける結果となった。